先生ちゃん。
ご長寿経済番組ブルガリア神殿に出演しているカエルのような見た目の中年男が先生ちゃんの目の前で四つん這いになっている。男は尻の穴を広げられ低く湿った声を漏らしていた。
「全部うまくいった。やることなすこと全部な。わかるわけだ。どこで勝負すればいいか。反対にどこは抑えればいいのか。」
男は目薬をさしながら投げやりに言った。先生ちゃんはこんなことを投げやりに言えたらどんなに素敵だろうと思った。
尻への加持祈祷のあとで男は決まって饒舌になった。男の本業は作家だった。彼は普段申し分のない慎重な態度で先生ちゃんに接したが尻からの緊張が解かれたときだけ貯め込んだものを吐き出すようにしゃべった。
吐瀉物の匂いではなかった。後ろから抱き着くように寝ている女の息の匂いだった。
『赤だと思いきや緑』冒頭より
処女作『赤だと思いきや緑」が新人作家としては異例の売り上げを記録し新しい時代の作家として祭り上げられたこの男は、その後7作ほどの中編・長編小説を書いた後で活躍の舞台をテレビ業界に移していった。男はうまくやっていた。
「一番旨いところを食べさせてもらったわけだ。ちなみにあんたたちの世代が食うのは俺たちが食い散らかした残飯なんかじゃない。俺たちが残した飯をあさった奴が見向きもしなかったゴミだ。たぶん運が良かっただろうな。それに。しかるべき努力をすれば世間は汚い金をたんまり吐き出してくれる。俺はその金をこうやって気前よく今でもばら撒いているわけだ。」男は自分のいる部屋のカーペットを指さした。
先生ちゃんはハイアット・リージェンシーの一室で男が指さした地面のふかふかとしたカーペットを凝視しながらでカラカラと乾燥した空気を吸い込んだ。どういうわけだかひどく息苦しかった。息をしても息をしても吸い足りなかった。先生ちゃんはどうしてハイアットで高山病みたいになってしまったのだろうか考えた。泣きたくなった。
目の前にあるデスクの上では乱雑に置かれた書類やタブレット端末が男の持ち込んだデスクライトの光に照らされていた。タブレットに反射したデスクライトの光が先生ちゃんの目を執拗に刺した。彼女はひどく惨めな気持ちになった。
「しかるべき努力をすれば世間は汚い金を吐き出してくれる。」
先生ちゃんにも心当たりはある。
彼女は新宿にあるお茶屋を模したキャバクラで5年間懸命に働いていた。同僚のように煌びやかな生活をすることはどうにもできなかったしLVMHやケリングに自分の稼ぎのほとんどを吸い取られるのも御免だった。同業との付き合いも仕事に支障が出ない程度に抑えた。新自由主義的母親が産み落とした奇形児のようなロゴ物ブランドを身につけなければ仕事をしづらい際には同僚に金を払ってそういったものを借りた。
彼女はスタッズの付いていないチャーチのバーウッドを大切に履き、三枚入りの白いパックTシャツを月に1度だけ買い足した。下には色落ちしたLEEのデニムを履いた。翌月Tシャツは雑巾に生まれ変わり冷蔵庫の中をピカピカにした。生活はとても質素だった。貧相・初期アバターといった言葉で彼女の消費傾向に冷笑的なメスをいれようとする同僚もいた。しかし先生ちゃんには痛くもかゆくもなかった。ベーシックの良さを説くのは面倒だった。
ところで先生ちゃんは別に自分が賢い消費者だなんて己惚れているわけではなかった。ただ自分の消費傾向は新宿の同業他者とは明らかに異質だったし一部の人間からの受けがとてもいいことも心得ていた。先生ちゃんは自分のこうした傾向をより高度に洗練化させ集客につなげていった。
上品さとキッチュの間を上手に渡ることは彼女の最も得意とすることだった。
酒を注文させるときにはよくブランデーをボトルで入れてもらった。家で梅酒をつけているから美味しいブランデーを飲み比べてみたいと言うと面白いくらいボトルが入った。客側も下品な飲み方をする他の客たちと自分たちの差異化に機嫌を良くした。客たちはおまけに浴びるように酒を飲まないので翌日も気分が良かった。先生ちゃんは非日常を楽しむために店に来る客が心の底で望んでいる平和な日常を上手に提供することが出来た。キャバクラというよりはクラブにいそうな女だが、クラブにいそうな人間がキャバクラにいるという捻じれのおかげで非日常の中で日常を楽しむという舞台は奇妙な魅力を放つようになっていった。
自己演出の一環で先生ちゃんはインスタグラムに日々読んでいる本や映画の写真をアップロードしていた。投稿をみた客は先生ちゃんが見た本や映画の話をしながら酒を飲んだ。本や映画は過去にベストセラーになったものや記号として確実に機能する古典や準古典を選ぶように心がけていた。写真に付随してのせる文章も意識して程々に拙い印象論で書き、客が先生ちゃんを啓蒙するための余白を用意することをインスタグラム運用の第一信条とした。
『赤だと思いきや緑」を読んだという先生ちゃんの投稿をたまたまみた出版社の経営者はある日先生ちゃんに男を紹介してくれた。彼らはバブル期に編集者と作家という関係でタッグを組んでいた。彼らは出版社の経費でホテルを数か月にわたり借り、ひたすらテニスをしていた。
男は「テニス男の悲しみ」という本をこのとき出したがそれほど売れなかった。
彼には散文フィクションを書く野心がもうそれほど残されていなかった。手癖で書いた文章だということはだれからみても明らかだったのだ。
そういった経緯で先生ちゃんはひょんなことから小説家をセミリタイアした本物の先生に会うことになった。
何度も会ううちに先生ちゃんは男を気に入った。男も先生ちゃんを嫌いではなかった。二人は酒を飲み、尻への加持祈祷をしながら時間をつぶした。
「何を書いているんですか?」
二人が会うのは一度の例外もなく男が定宿にしているハイアットの一室だった。
デスクの上にはたくさんの書類と絵の具。ノートPCが置かれていた。
「来週渡さないといけないんだ。」
男は細いレンズの眼鏡を外して指で両目をムギュムギュと押していた。画面には「僕とボルボ-3」と書いてあった。書き途中の絵もデスクの上に置いてあった。
文章の方は商業的な短いものでそれほど興味がわかなかった。ただ美大に通っていただけあって男の絵はやはり上手かった。男の目に捉えられ、そして描かれた精巧なメカニックは先生ちゃんを高揚させた。
「書いていると落ち着く。神殿で経営者の話を聞くよりはるかに有意義だ。お題が決められているのも素晴らしい。もう何が書きたいのか自分じゃさっぱりわからないから。」
男の才能が自分の創作欲を焚き付けていることは重々承知の上で、ハイアットから自宅に帰った後で先生ちゃんは自分の創作活動に必ず3時間ほど使った。
先生ちゃんはキャバクラで働いていたときの経験を四コマ漫画にした。
彼女は自分の経験を抽象化して架空の経験を立ち上げるような知的操作が出来なかった。せいぜいできるのは自分が体験したことをそっくりそのままの形で作品にすることだけだった。
彼女は蓄えていたお金を使ってまとまった創作活動をする時間を設けることにした。ペンタブにソフトとパソコンを買って毎日モクモクと漫画を描いた。ハイアットから帰ってきたときはとりわけ一生懸命描いた。
しばらくして先生ちゃんはまとまった原稿をこさえ出版社の社長にそれを渡した。
プライベートに仕事を持ち込まれることに抵抗のある人だということも重々承知だったが、男はその場で原稿に目を通してくれた。
「よく描けているじゃないか。君も創作者だったなんて。俺の周りにはクリエイティブな人間が多い。俺は全然なのに。」
K社長の言葉に気をよくした先生ちゃんはハイアットに原稿をもっていった。
「Kさんはほめてくれたんだけど…」
先生ちゃんはカエル男の尻へ加持祈祷を施した後で原稿をバッグからとりだした。
男は時間をかけて原稿に目を通した。こういうときの男の真剣さには鬼気迫るものがあった。先生ちゃんの目の前には一つの時代を掴んだ作家がいるのだ。
「Kは君のこれを褒めてくれたっていったよな。あいつもいい加減なことを言って夢をみさせるようなことをするんだ。俺からきつく言っておく。これだけどさ、正直に言って君にはあんまり才能がないよ。そんなことみればすぐにわかる。残念なことだがおそらくMは適当にお茶を濁しただけだ。こういう商売をやっているとよく作品を見せられることがあるよ。でもね。いままで誰一人として面白いやつはいなかったよ。」
男は目をムギュムギュと抑えながら先生ちゃんに原稿の束を返した。
「一生懸命描いたの。伝わった?」
先生ちゃんは自分がどうしようもないことを言っていることを自覚していた。
「一生懸命やるのは当たり前だ。一生懸命やって浮かばれない人間の死体が周りにどさどさ横たわっている。俺たちの周りには不幸になってもかまわない、それでも何かを形にしたいっていう人間が五万といる。君は俺のように身近な人間が成功しているから自分でも…と思うだろ?でもな、俺はたまたま宝くじの一等に当選したようなものなんだよ。身の回りで宝くじを当てた人間は何人もでてこないだろ?そうじゃない。宝くじを当てた人間が当てた後でワラワラと集まっているだけなんだよ。わかったらそれしまえって。」
どうして尻への加持祈祷のあとで男に原稿をみせてしまったのだろう。どうして男にわかっている「どこで勝負すればいいか。反対にどこは抑えればいいのか。」が自分にはわからないのだろう。先生ちゃんはきつく唇を閉じていた。
「恐れるな、世界はまだ俺の下にあるんだぞ」
先生ちゃんは『赤だと思いきや緑』の一番好きなセリフを思い出した。
目の前の男は私を見て言うのだろうか「世界は最初からおまえの下にはないのだ」と
アナタには鳥が見える。ワタシには鳥が見えない。あなたには自分が向き合うべき対象を見定めることができる。アタシには、アタシにはアタシにはアタシには、
アタシには アタシには
アタシには
アタシに アタシにはアタシ
アタシには
富士額
「持っている富士額をみてみたいんですよ。悪い話じゃない。オフィシャルな場でお会いするので構いません。少しでも怪しいと思ったら逃げればいいんです。」
私はイヤホン越しに聞いた野太い声を耳の外に追い出そうと試みながらJR山手線渋谷駅で下車する。青山学院方面に向かってトコトコ歩き、赤信号で突っ込んでくるレンジローバー・ヴォーグが眼の前を通り過ぎるのを待つ。どういうわけだか浮浪者が道路を掃いている。
午前10時。貸し会議室のあるオフィスビルに入る。
12時のお昼休憩までの二時間。私はメモ帳に正の字をつけながら一時間当たり15件電話をかけていく。午前中に30件こなせば午後の仕事は少しだけ楽になる。お弁当のいんげんをボリボリと咬みながら男の話を思い出す。
「ところであなたの周りにはいわゆる富士額の人っていますかね」
パソコンにデータを入力したらすぐ次の電話番号を入れる。見込みなし。
男の話を頭の片隅に追いやろうとするがなかなか上手くいかない。
「電子決済はあまりご利用にならないですか?」
私は電子決済端末を飲食店事業者に導入する営業の電話を渋谷の貸しオフィスからかけている。
終わらない梅雨の空には。栞をつけましょう。
列島から四季がなくなっておおよそ2年たった。
人びとは雑煮を雨の中食べた。梅雨のせいだ。
卒業式も入学式も雨だった。梅雨だ。
海水浴場にはサーファーしか来なかった。8月は毎日雨だった。梅雨。
一学年における大学生の留年者数は10年前のそれに比べて6.1倍上昇した。
多くの学生は低気圧に苦しみベッドから起き上がれなくなった。1限の講義に参加することも出来ず必須科目を落とし留年するようになった。教育評論家は終わらない梅雨が学生のメンタルヘルスに大きく影響しているという指摘をしたがそんなことは誰にだってわかっていた。
SSRIを流通させている製薬会社の株価は大きく値を上げた。終わらない梅雨に多くの人間が辟易、精神を消耗させた末に心療内科へ通うようになったことは株価上昇に一役買っていた。
大勢の人間が朝起き上がれない自身の肉体を奮い立たせようとカフェイン飲料や太陽の光を模した照明器具、各種のサプリメントを購入した。amazonjapanではこうした商品がそれぞれのカテゴリーランキング上位に食い込んだ。
しかしそんなガラクタは気休めにもならなかった。
梅雨があけず2年たち、国民に占める自殺者の割合は劇的に増加した。
だれもこの滑稽な状況を好転させることができなかった。
土砂が崩れ、川は氾濫し、部屋干しのTシャツは悪臭を放った。
大勢の人間が1日の平均睡眠時間を7時間から15時間に伸ばした。
誰も起き上がることが出来なくなった。
手を挙げて。私は足を挙げる2
静音さんは西日本でカステラ屋を営んでいる家の次女として周囲からたくさんの。つまり雑多な愛情を注がれて育った。
彼女を取り巻く人間。つまり、静音さんの家族は彼女を甘やかしているというわけでもなかった。彼女はテレビを見ないで育ったしそれほどの金額をお小遣いとしてもらっていたわけでもなかった。
彼女は中高一貫の女子高に通っていた。同級生は士業や開業医、中小企業経営者の娘が多かった。中小企業の経営者と整形外科医の娘を別として静音さんの周りにいる人間も大人しい人間が多かった。
静音さんは母親のことがそれほど好きではなかったが反対に父親のことをとても慕っていた。
彼女の父親はそのまた父親である男。つまり静音さんの祖父にあたる人物からカステラ会社を31歳の時に引き継いだ。
彼女の父親は絶えず会社の規模を維持・拡大させていくために一生懸命働いていた。とても誠実な人物だった。二世のドラ息子だとは思われたくなかったし、彼の父親が事業拡大した会社を堅実に次の世代に継承することを自らの人生における重要な使命だと思っていたのだ。
静音さんの父親にはある種の行動規範があった。彼がその行動規範を誰から継承したのか、あるいはどのタイミングでそれをこさえたのか。それは誰にもわからない。
「一流の商人であれ。一流の詩人であれ。」
静音さんは小さい頃から父親のそういう言葉を漠然とではあるが好意的なイメージでもって耳に入れていた。
彼女は父親から引き継いだ行動規範の片方。つまり一流の詩人であることをまずは自分の行動規範に設定することにした。
静音さんはそれほど多くの本を読んだわけではない。人並み程度の本しか読んでいない。しかし彼女の言葉は思春期の女の子が振り回すようなベトベトした感性からすでに脱皮していた。見事な抽象的観念と素朴な具体性の橋渡し。彼女の言葉はそのような高度な次元で紡がれていた。
彼女は自分が武器として類まれな言葉を操ることができるということに意識的だった。
静音さんはしかるべきタイミングがくると自身の胸の内に沈殿しているドロドロとした物事を言語化して大学ノートにサラサラと書き記していった。そしてまたドロドロが沈殿するまでの間、平和な時間を過ごした。平和な頃には決まって生理がきた。
彼女が書いたなかで、とりわけ評価が高く、また文壇で成功をおさめた詩は彼女が高校三年のときに 思潮社の現代詩手帖に掲載されたものだった。
彼女にはトイレで「あ゙あああああああ」と叫ぶクラスメートがいた。
まだ音姫などない時代だった。みんな尿を出す前に水を流して尿の音を消していた。
クラスメートはそれでも「あ゙あああああああ」と言うことでおしっこの音を消した。
同級生や下級生。ときには上級生の何人かが「あ゙あああああああ」という声を聞いて泣いた。
まだ高校生だった静音さんはクラスメートの出す叫び声のようなものをしっかりと自分の胸の中に閉じ込めた。彼女は自身のドロドロとした感情を言語化し、そのドロドロに明瞭な輪郭をもたらす高度な観念操作を行うとき「あ゙あああああああ」と叫ぶクラスメートのことを思い出した。
彼女の文壇処女作「石材屋。濁点。声。」はこうして生まれた。
手を挙げて。私は足を挙げる1
各々が各々の手を挙げる。特に理由はないけれど手を挙げる。
人びとは手を挙げる練習をするために週に一度広尾駅のすぐ近くにある祥雲寺というお寺に集まる。
「はい!」
「はい!」
「はいーっ!」
それぞれが異なった境遇からこのお寺に集まって手を挙げる練習をしている。
僕はフウッと鼻から息を吸ってから4秒ほど時間をあけて今度は少しずつ口から息を吐く。
「はいっ!!」
みんなが一斉に僕が座る座布団の方を向く。向けられる視線に負けてはならない。うつむいてはいけない。胸を張り、眉間に力を入れる。ハッタリをかます。
「今日の声いいじゃないか!それに自分にすごく自信があるように見える。」
カウボーイハットを被った男。つまりこの会の主催者は半跏趺坐の状態で僕に声をかける。
一時間ほど各々が手を挙げて「はいっ!」と言う練習をして会はお開きになる。
「ご自身の納得ゆく『はいっ!』はでましたか?それではまた来週。」
締めの挨拶を終えてカウボーイハットの男は寺の外に出ていく。
寺の正門から出てすぐの私有地に止められた銀色のベントレーコンチネンタルGT
は明治通りに消えていく。
僕はナイキのテックフリースから紺のワンピースに着替えた静音さんと寺の正門で落ち合う。
美人は何を着ても素敵だ。しかしテックフリースを着た美人はとりわけ素晴らしい。
健康。若さ。健康。若さ。
「今日は随分張り切ってたね。なんだかいつもと違う雰囲気だった。」静音さんは
手を挙げる練習をしていたときに外していた金色のイヤリングをつけながら僕を褒めてくれる。
「昨日すごく亜鉛を飲んだんだよ。亜鉛は最高。活力がみなぎってくるよ。」
「ねえ。いま22歳でしょ?なんで亜鉛なんて飲んでるの?そんなもの必要ないでしょう?」
「活力だよ。僕は活力を欲しているんだよ。絶えず能動的であらねばという呪いだよ」
「あきれる笑」静音さんはくしゃっと笑う。僕はそのくしゃっとした笑顔が好きだ。
くしゃっとした笑顔は素敵な女性にしか似合わないのだ。
僕たちはコインパーキングに止められた静音さんのマツダロードスターに乗って茗荷谷に移動する。
静音さんのマンションは駅から5分ほど歩いたところにある。
『手を挙げてハイッ!と言う』練習が終わった後、僕たちはマツダのロードスターで、あるいは電車に乗って茗荷谷のマンションに行き晩御飯を食べる。
静音さんには大阪の大学で教員をやっている夫がいる。僕にも百貨店で宝石を売っている恋人がいる。僕たちは誰にも言わない気ままな関係を週に一度だけ楽しんでいる。