土 .6

ぼくちゃんは自分で自分を操作しているような感覚の中にいた。

彼はジープチェロキーを操作している自分を操作しているつもりでいた。

パークシティ浜田山E棟の目の前にある並木道に車を横付けしたのは8時56分だった。

 

「僕はサイドブレーキを引く」

彼は心の中でまずそう思ってからサイドブレーキを引いた。

 

「僕はシフトレバーをドライブからパーキングにスライドさせる」

彼は脳がそういう指令を自分に与えて、その指令が左手に伝達されていることを実感してからレバーをスライドさせた。

 

オレンジ色の暖かいライトが瀟洒なマンションの前やエントランスを照らしている。彼は真っ赤なリュックサックを肩にかけてから車のドアを開けた。リュックの中には何も入っていなかった。ただ赤いリュックを自分の視界のなかに置いておきたかったのだ。

 

「僕は後ろから車が来ていないことを確認してから外に出る」

彼はまずそう思ってから車の外に出た。

この儀式はぼくちゃんを落ち着かせた。彼は自分で自分をコントロールできているという確かな実感が与えてくれる不思議な安心感の中にいた。

 

E棟に向かって歩いていると、向かいから30代くらいの女性がきた。

ぼくちゃんは彼女の視点からみた自分を意識した。彼は映画のディレクターになっているような気分だった。彼女の視点からみた自分を何カットか映像に加えることで第三者的な視点から自分を眺めているような気分になった。加えて女の視点からみた映像を鑑賞している観客の視点からぼくちゃんは自分を眺めた。

 

ぼくちゃんはこの儀式をひと段落させたかったが、残念ながら思考のループから抜け出せなかった。彼はマンションのエントランスに設置されているオートロックのインターフォンに女の子から指定された部屋番号を入力した。

 

「僕は今右手の人差し指を3という数字に近づける。」

ぼくちゃんはまずそう心の中で唱えてから番号を入力した。

彼は羅列された番号をみているのではなく、自分の背中のあたりからインターフォンを押している自分自身を観察しているような気分でいた。

 

「○○様ですね、どうぞお入りください。」

声色から年齢を特定することはできなかったが女性の声だった。けれどその声はぼくちゃんをなぜだか不安にさせた。女の声はどことなく変声期を迎える前の男の子の声みたいだった。そこには彼が普段接したことのない人間の雰囲気があった。

 

「僕は左足を前に出す。その後で右足をまっすぐに出すのではなくて、30度ほど角度をつけて出す。」

彼は共同エントランスのドアを通る際にも、同じように自分を操作している実感を持ちながら歩いた。

ぼくちゃんはホテルのような内廊下を歩き、そそくさとエレベーターに乗った。

彼は意味もなく赤いリュックを自分の胸の中で抱きしめていた。

エレベーターは20秒ほどで彼を三階に運んだ。壁には鼻くそやガムが一つもこびりついておらず綺麗なエレベーターだった。感心した。

 

指定された番号のドアの前でインターフォンを押そうとしたが、それよりも早くドアが静かに開いた。中から様子を確認されていたのではないかと思うとぼくちゃんは不快な気持ちになった。なによりも「ドアの内側から見られている自分」を彼がイメージする前にドアが開いてしまったことが嫌だったのだ。

 

開いたドアから中に入るとぼくちゃんの眼はくらんでしまった。

どういうわけだか部屋が明るすぎた。白熱灯の光ではなかったが部屋は

あまりにも明るかった。夜9時の住宅に適切な明るさではなかった。

 

目がようやく慣れてくると女がぼくちゃんをリビングに案内した。

女は一言も口にしなかった。目で合図するだけだ。

顔から察するに30代前半だろうか、しかし女の身長は110センチほどしかなかった。

ぼくちゃんは持っていた赤いリュックサックをギュッときつく胸に抱いた。