スタインウェイの上、オレンジジュース1
「今日できることは明日にのばせ」
家訓だ。
いつもいつも「今日できることは明日にのばせ」をマントラのように飽きずに唱えた。おかげさまで化学のテストは毎回赤点だった。しかしまた高名な密教の僧侶だってこれほど真面目にマントラを唱えやしないだろうという自負があった。根が真面目だ。
なんとか大学に滑り込んだあたりから、家訓が学生生活を圧迫するようになった。
再履修の授業のため、朝早くの電車に乗っていたとき、電車の中で中学生が吐いたとき、
ゲロの中のトマトが僕の靴についたとき、
もうこんなことはやめにしようと思った。
話を切り出してみた。こびりついたトマトは駅前のハトに食わせた。
マントラは頭の中で「いやだ、一緒にいたい」とごねる。国分寺のデニーズで別れ話を持ち掛けられるような女と同じだ。残念だが神はあなたと共にはおられないのだ。
下級生と受ける英語の再履修は二度とごめんだったので僕は引き下がらなかった。
もうハクスリー『素晴らしき新世界』の解説を朝の9時に受けるのはやめにしたかった。
朝の9時になにをするのがいいかはわからないけれど、少なくともハクスリーの時間ではない。朝の9時は朝の9時っぽいことをするべきだ。
「いいか。あれするときに大事なのは前後のシチュエーション・時間・ムードだ。」
前立腺の話しかしない祖父が成人のお祝いで僕に送ってくれた暖かい言葉だ。
ハクスリー を読むのも、別れ話をするのだって、シチュエーション・時間・ムード。 が大切に決まってる。
魔法のようなマントラとお別れの決心を。再履修のハクスリーもだ。
シフトレバーを一つスライド。加速。
お別れ以降、生活が変わったかどうか、あるいは僕自身が変わったのかどうか、
それはよくわからない。けれども、新しく始めたバイトで知り合ったICUの女の子は勤務中「おまんこ」と僕の腕にこっそりマジックペンで書いてくれたり(ああ、ここが本当の素晴らしき新世界だ)
武蔵境のアパートの鍵をくれたりしたので(綺麗な部屋だった、飾ってある小さなクリムト のポスターは大袈裟で最悪だった。)
おそらく生活は変わったんだろう。僕も変わったのだろう。
シフトレバーを一つスライド。加速