手を挙げて。私は足を挙げる1
各々が各々の手を挙げる。特に理由はないけれど手を挙げる。
人びとは手を挙げる練習をするために週に一度広尾駅のすぐ近くにある祥雲寺というお寺に集まる。
「はい!」
「はい!」
「はいーっ!」
それぞれが異なった境遇からこのお寺に集まって手を挙げる練習をしている。
僕はフウッと鼻から息を吸ってから4秒ほど時間をあけて今度は少しずつ口から息を吐く。
「はいっ!!」
みんなが一斉に僕が座る座布団の方を向く。向けられる視線に負けてはならない。うつむいてはいけない。胸を張り、眉間に力を入れる。ハッタリをかます。
「今日の声いいじゃないか!それに自分にすごく自信があるように見える。」
カウボーイハットを被った男。つまりこの会の主催者は半跏趺坐の状態で僕に声をかける。
一時間ほど各々が手を挙げて「はいっ!」と言う練習をして会はお開きになる。
「ご自身の納得ゆく『はいっ!』はでましたか?それではまた来週。」
締めの挨拶を終えてカウボーイハットの男は寺の外に出ていく。
寺の正門から出てすぐの私有地に止められた銀色のベントレーコンチネンタルGT
は明治通りに消えていく。
僕はナイキのテックフリースから紺のワンピースに着替えた静音さんと寺の正門で落ち合う。
美人は何を着ても素敵だ。しかしテックフリースを着た美人はとりわけ素晴らしい。
健康。若さ。健康。若さ。
「今日は随分張り切ってたね。なんだかいつもと違う雰囲気だった。」静音さんは
手を挙げる練習をしていたときに外していた金色のイヤリングをつけながら僕を褒めてくれる。
「昨日すごく亜鉛を飲んだんだよ。亜鉛は最高。活力がみなぎってくるよ。」
「ねえ。いま22歳でしょ?なんで亜鉛なんて飲んでるの?そんなもの必要ないでしょう?」
「活力だよ。僕は活力を欲しているんだよ。絶えず能動的であらねばという呪いだよ」
「あきれる笑」静音さんはくしゃっと笑う。僕はそのくしゃっとした笑顔が好きだ。
くしゃっとした笑顔は素敵な女性にしか似合わないのだ。
僕たちはコインパーキングに止められた静音さんのマツダロードスターに乗って茗荷谷に移動する。
静音さんのマンションは駅から5分ほど歩いたところにある。
『手を挙げてハイッ!と言う』練習が終わった後、僕たちはマツダのロードスターで、あるいは電車に乗って茗荷谷のマンションに行き晩御飯を食べる。
静音さんには大阪の大学で教員をやっている夫がいる。僕にも百貨店で宝石を売っている恋人がいる。僕たちは誰にも言わない気ままな関係を週に一度だけ楽しんでいる。