スタインウェイの上、オレンジジュース4
世界がまだ若く、5世紀ほどもまえのころには、人生の出来事は、いまよりももっとくっきりとしたかたちをみせていた。悲しみと喜びのあいだの、幸と不幸のあいだのへだたりは、わたしたちの場合よりも大きかったのだ。ホイジンガ『中世の秋』
僕は受け持ちの生徒に一時間チェロを教えた。
だいたい15分くらい雑談をして残り45分バッハ『無伴奏チェロソナタ ハ単調』を生徒に弾いてもらった。いつも通り、聴いていて頭に引っかかった箇所を僕が弾き直す。その音を耳に通過させた後で再度同じ数フレーズを生徒に弾いてもらうという一連の流れに身を任せてしまうとレッスンはあっという間に終わってしまう。
僕が教えている生徒のほとんどは、身なりのいい50代の既婚女性だ。大抵はこざっぱりとした服を着て、カルティエのパンテールやらタンクをつけている。
当然ながら楽器の練習というものの大部分は地味で面白みに欠ける反復練習に占められる。そして多くの生徒が何度か通った末に、子供の世話やら教育。日々の雑事を理由に辞めていく。当たり前のことだが新しく何かをはじめ、継続させるというのは中々に難しいことなのかもしれない。
僕が受け持っていた生徒たちは少なくともレッスンの初期段階に訪れる関門を乗り越え、こうしてチェロのレッスンを継続している。僕は彼女たちが好きだった。どの女性も懸命に練習した。それに彼女たちは皆とても素敵な年の取り方をしていた。それは日々の暮らしの積み重ねによってつくられた立派な地層のようなものだった。僕は地層の一部を構成するなにかの要素になれたような気がして嬉しかった。そういうことってあまりない。
僕は途中に休憩を入れて6時間。4人の生徒を教えた。15分の間隔をあけているのでレッスンとレッスンの間にマダムが鉢合わせるということはなかった。
いずれの女性も他人との間に意識的な距離感を保っていた。ズカズカと人のパーソナリティに踏み込んでくるような女性は一人もいない。とても素敵な職場だった。
生徒たちには近々自分が辞めるかもしれないと伝えていた。
何人かの生徒からは会社を通さずに個人レッスンという形で引き続きチェロを教えてほしいという打診も受けていたけれど、僕は生徒を会社から引き抜くようなことはしたくなかった。
会社の代表が好きだったし。代表も僕のことを気に入ってくれていたからだ。
「もうこんな時間なの?今日で最後でしょう?いままでありがとうね。」
「こちらこそ、本当にありがとうございました。後任の先生は僕より教えるの上手ですよ。安心してください。」
「ねえ、いい? 私はあなたが教えてくれたからレッスンを続けることができた。お世辞抜きにとても楽しかったの。残念だけど一定の年齢を過ぎると楽しいことって、まあなかなかないの。いろいろなものが若い頃見たようにはキラキラ飛び込んでこなくなってしまうっていうのかな。歯ごたえのあった起伏みたいなものはどんどん、どんどん、なだらかになっていくの。あなたが今何を抱えているのか、反対にどんな楽しいことを経験しているのかはわからないけれど、あなたもごつごつとした起伏をもっているでしょう。ねえ、そういう起伏を大切にしてね。」
そう言うとマダムは帰って行った。
僕は「起伏」について考えた。そんなものが今まであっただろうか。僕が持っている起伏なんて腹の下にくっついてる萎れたペニスくらいだろう。タンポンのせいで彼女とも別れたんだからおしっこするときにしか使わないゴミみたいな管だ。
しばらくボーッとしていると。代表に呼ばれた。僕はチェロ教室のなかにある事務スペースに移動した。
シフトレバーをスライド。一時停止。