スタインウェイの上、オレンジジュース9
「チェロのレッスンで伺いました。本日のお約束だったと記憶しています。」
「ああ、今日だったのか。悪いことしたねえ。上がってほら。」
おばさんの喋り方はとてもぞんざいだった。しかしながら人を不快にさせるようなものでもなかった。一部の人間にのみ可能な態度とでも言えばいいのだろうか。周りにいる人間を自分のペースに巻き込んでいくタイプ。ある意味では信頼できる人間に特徴的な資質でもある。
「お邪魔します」僕はクルミのような音を出さないように、できる限り靴を地面から上げず玄関に入り、そそくさと靴を脱いだ。
「散らかってるけど、勘弁しなよ。」おばさんは玄関でもたつく僕を一瞥すると、来客用のスリッパを足元に置いた。
僕はタイル張りの床に置かれたスリッパを履き、おばさんのあとに続いてリビングに入った。
リビングルームは確かに散らかっていた。何畳あるのだろう。かなり広いことは確かだ。
部屋に入ってすぐ目についた大きなガラスのローテーブルの上には香水瓶や楽譜、酒瓶などが乱雑に置いてあった。
フラワーベースにぶっ刺さった5,6本の白いカラーはどれもくたくたにしなびれておりちょっとだけ嫌な臭いを出していた。
「座りなよ、今飲み物持ってくるから。」
僕は言われたとおりにローテーブル近くのソファに座った。
僕は目の前にある大きな鏡がソファに座る自分の姿を映していることに気が付いた。顎の部分が赤くなっているのはきっとニキビのせいだろう。
僕はニキビで真っ赤になった顎を直視したくないので、首をソファの背もたれの方に向けた。左側に首を回すとヤマハのグランドピアノ。反対、つまり右側に首を回すとスタインウェイのグランドピアノが置いてあった。二重奏でもやるのだろうか。贅沢な部屋だった。
「オレンジジュースしかなかったよ。あんた車できたんだろ?」
おばさんは瓶ビールを左手に持ちながら右手にオレンジジュースの入ったグラスを持って戻ってきた。おばさんはオレンジジュースをガラステーブルの上ではなくスタインウェイのグランドピアノの上に置いた。テーブルの上は散らかっていて何も置けやしないのだ。
オレンジジュースをこぼしたら最悪だけど自分の楽器ではないのでまあどうでもいいやと僕は思った。
「飲みなよ。」
僕はスタインウェイの上に置かれた飲み物を取るために立ち上がった。
テーブルとして使われているスタインウェイのそばに近づくと、僕は自分が一体全体なにをしに来たのかわからなくなってしまった。とりあえずオレンジジュースを一口飲むことにした。