チロシン

「バカな!俺たちあと5年と経たずに死ぬっていうのか!?。チロシンを毎日欠かさず飲んでいたというのに!?」

 

先月ここに入ってきた男が叫んでいる。 

 

「亜鉛、グルタミン、ビタミンはなんだったんだ…」

 

「あとあれだよ、ナウフーズで買ったビオチンは!?」

 

「俺はさあ…100年後の12頭身に進化したナオンマンコを拝みたいだけなんだよ…

多くは望まないよ12頭身のマンコだけでいいんだ…」

 

「ホホホ幸あれ、安らかに眠りなさい。あんたにはゼロ頭身のテンガがお似合いやなぁ」

 

私たちは老人ホームに軟禁されている。

 

『がんばりすぎないでー♪』

関東ローカル局:テレビコマーシャル 「有料老人ホーム、ファニーライフ」

 

 

 

身体は残念ながら言うことを聞かない。歯肉も胸筋も地面に向かって下がっている。

味のしない飯。3日に一度のイモ洗いのような入浴。面会に来ない娘夫婦。私のメルセデスベンツを無断で借りて女とドライブに行く孫。死につつあるペットの犬。

76年間生きて来た見返りの数々。

疲れてしまったのだろうか。残念ながら12頭身のマンコにはお目にかかれそうもない。

そもそも私はもうそんなものを見たくない。

 

「ジャリジャリジャリ、オエッエエエエ、ジャリジャリ、」

仲良くしていた入居者の女は上の歯のインプラント手術以降、完全にぼけてしまっている。

彼女は陰毛を引きちぎっては口の中に放り込んでいる。長生きすると人は陰毛を食らう。

 

私たちは老人ホームにいる。そっと死ぬのを待っている。長く生き過ぎたのだろうか。

 

欲しがらなくなった途端欲しかったものは手に入る。

 

私は死にたくないと思わなければならない。今、目の前でビオチンやらグルタミンやら叫んでいる男はもうすぐ死ぬだろう。こつは欲しがらなくなることなのだがら。

            ゴゴゴオゴゴッゴオゴゴゴゴ

佐伯さんが痰を吸引してもらっている。もう寝よう。

神様、二度と私が目覚めることのありませんように。

 

 

 

 

 

 

スタインウェイの上、オレンジジュース9

「チェロのレッスンで伺いました。本日のお約束だったと記憶しています。」

「ああ、今日だったのか。悪いことしたねえ。上がってほら。」

おばさんの喋り方はとてもぞんざいだった。しかしながら人を不快にさせるようなものでもなかった。一部の人間にのみ可能な態度とでも言えばいいのだろうか。周りにいる人間を自分のペースに巻き込んでいくタイプ。ある意味では信頼できる人間に特徴的な資質でもある。

「お邪魔します」僕はクルミのような音を出さないように、できる限り靴を地面から上げず玄関に入り、そそくさと靴を脱いだ。

「散らかってるけど、勘弁しなよ。」おばさんは玄関でもたつく僕を一瞥すると、来客用のスリッパを足元に置いた。

僕はタイル張りの床に置かれたスリッパを履き、おばさんのあとに続いてリビングに入った。

リビングルームは確かに散らかっていた。何畳あるのだろう。かなり広いことは確かだ。

部屋に入ってすぐ目についた大きなガラスのローテーブルの上には香水瓶や楽譜、酒瓶などが乱雑に置いてあった。

フラワーベースにぶっ刺さった5,6本の白いカラーはどれもくたくたにしなびれておりちょっとだけ嫌な臭いを出していた。

「座りなよ、今飲み物持ってくるから。」

僕は言われたとおりにローテーブル近くのソファに座った。

 

僕は目の前にある大きな鏡がソファに座る自分の姿を映していることに気が付いた。顎の部分が赤くなっているのはきっとニキビのせいだろう。

僕はニキビで真っ赤になった顎を直視したくないので、首をソファの背もたれの方に向けた。左側に首を回すとヤマハのグランドピアノ。反対、つまり右側に首を回すとスタインウェイのグランドピアノが置いてあった。二重奏でもやるのだろうか。贅沢な部屋だった。

「オレンジジュースしかなかったよ。あんた車できたんだろ?」

おばさんは瓶ビールを左手に持ちながら右手にオレンジジュースの入ったグラスを持って戻ってきた。おばさんはオレンジジュースをガラステーブルの上ではなくスタインウェイのグランドピアノの上に置いた。テーブルの上は散らかっていて何も置けやしないのだ。

オレンジジュースをこぼしたら最悪だけど自分の楽器ではないのでまあどうでもいいやと僕は思った。

「飲みなよ。」

僕はスタインウェイの上に置かれた飲み物を取るために立ち上がった。

テーブルとして使われているスタインウェイのそばに近づくと、僕は自分が一体全体なにをしに来たのかわからなくなってしまった。とりあえずオレンジジュースを一口飲むことにした。

 

 

 

 

 

 

スタインウェイの上、オレンジジュース8

Eyes low, chin heavy shoegazer
目線は落ちてて、うつむいてるシューゲイザーみたいだ

Moonwalkin’, R.I.P. Stanley Kubrick
ムーンウォークなんてしてさ、安らかに眠れStanley Kubrick、

Frank Ocean 「Provider」

 

閑静な住宅街の中をゆっくりと走っていく。

芸術文化センターなる建物付近に僕はコインパーキングを見つける。

 

大きなチェロケースを背負い住宅街の中を2分ほどダラダラ歩く。グーグルマップを確認し教えられた住所に僕は少しずつ近づいていく。履いているボロボロのスニーカーからカラカラとクルミの転がるような音がする。おそらく小石が破れたソールに入り込んでメルヘンな音を出しているのだろう。僕は靴を見て少しだけ惨めな気持ちになってしまう。

 

カラカラと音を出しながら歩いていると、ようやく指定された住所の前に到着する。

 

真っ白なモルタル造りの外壁に木製の重厚なドア。屋根の下には、鍬のような形をした妻飾りがあつらえてある。建売のなんちゃって南欧風住宅とは一線を画す本格的な南欧テイストの住宅に僕は短く溜息をつく。

木製の鎧戸は経年劣化こそしているものの、それはそれでなんだか親しみやすい家の雰囲気を醸し出すことに成功している。「何も言うことはない。趣味がいい。」

僕はそう言いたくなるが、奇妙なことに敷地内には南欧テイストの家とは打って変わり、家主のこだわりを一切感じさせない無味乾燥な外観の家が一軒建っている。

僕は「まあいいや」と思う。どちらかの家の人間にチェロを教えればいいのだろう。

 

面倒なので二つの家に共用のエクステリアを開けて、南欧テイストの家のインターフォンを押してみる。おそらくこの家の住人が今日の生徒なのだろうという直感を頼りにする。

家主が出てくるまでの間に自分の直感がそれほど当てにならないことを僕は思い出し、軽くbadに入ってしまう。

 

「ねえ、何歳だと思う私?ねえ」

僕は女性が仕掛けてくるこの手の質問に対して満足な回答を導き出せたためしがない。「32歳!」と言った女性が実際は29歳だったとき。僕は自分の直感を今後は当てにしないと固く誓った。直感に従った回答ではチンコを握ってもらうことなど出来やしないのだ。

僕はいくつかの失敗を経てようやく気が付いた。

きっと男女の会話というのはサービスの応酬を重要な構造基盤としているのだ。

「23歳でしょ。ええ違うの?同い年だったら嬉しいなと思って23歳って言ったんだ」やらなんやら言うのが正解なのだろう。

 

チンコを握ってもらうために僕たちはこうやって少しずつ打算的になっていくのだろうか。

あと20年もすればインポテンツに悩みはじめ、痰がのどに絡むようになるのだろうか。極め付きに臭いにおいを体中から排出し周りの人間から煙たがられるようになるのだろうか。青汁を通販で購入してはバカみたいに延命を試み、挙句の果てに子供や孫から金を搾られるだけ搾り取られて死んでいくのだろうか。

そうなのだろうか。そうなのだろう。そうなのだ。

 

「なんだい。もう!」

僕をbadから引きずり出したのはドアを勢いよく開けた家主のおばさんだった。髪は派手に染められ、化粧もどぎついおばさん。爪も真っ赤だった。

踵を返して車に戻りたくなってしまった。僕はちょっとうつむいた。

靴はボロボロのままだった。

 

 

 

 

御冗談でしょう?中畑さん。10

「『「絵を描く人の絵」を描く人の絵』を描く人の絵を…」

                       再帰性

 

ムッシュ中畑の吃音はなくなっていた。薬が効いているのだろうか。とても素敵な声をしていた。テレビCMのナレーションとして食べていくこともできるのではないか。僕は真剣にそう思った。彼は控えめだけれど気持ちのいい声で生ビールを注文した。

僕はお代わりのジンジャエールをもらった。

「女の子にしばらく連絡してこないでほしいと言われました。何かあったのか聞こうにも返事がなく心配していたんです。中畑さんならなにかご存じじゃないかと思ったんです。」僕はグラスに着いた水滴をナプキンで拭いてそう言った。

「ええ、彼女の今置かれている状況についてはおおよそ把握しています。」中畑はそう言った。

「どうして彼女と連絡がとれないんでしょうか。今までそういうことはなかったんです。自分が何か女の子を傷つけるようなことを言ったのかもしれないとも考えました。しかし皆目見当がつかないんです。」

中畑は薄い琥珀色の液体が入ったグラスをほんの少しだけテーブル右端に移動させた。

「他人を傷つけてしまったとき、当該個人は往々にしてどうして相手を傷つけてしまったのか見当をつけられないものです。知らず知らずのうちに、私もあなたも周りにいる人間を傷つけてしまっているかもしれない。もし傷が治癒しないほど深いものであれば、相手は去っていきます。逆に運よくそれが浅い傷であれば事なきを得る。そして交流は保たれます。安心してください。あなたは女の子を傷つけたわけではありません。それは私にもわかります。彼女はあなたのことを嫌いになったわけではありません。原因は別の事柄に由来しています。」

 

「女の子もそう言っていました。別に僕のことが嫌いになったわけではないとラインがきたんです。今中畑さんもそういった趣旨のことをおっしゃいました。ならばそういうことなんでしょう。ではなぜ、女の子は僕と連絡がとれないんでしょうか。中畑さんがおっしゃる別の事柄とはいったいなんですか?」

ムッシュは銀色のピルケースからリタリンを一錠とりだし白ワインで流し込んだ。

みたところ既にピルケースは空になっていた。あまり時間は残っていないのだろうなと僕は思った。

「あなたは合成樹脂などの原料を製造している化学メーカーの株価が不正に引き上げられた話をご存知ですか?」中畑は言った。

「いえ、全く知りません。」僕は株や経済方面に全く知識がないことを認めた。

「違法に株価をつり上げたのは、とある仕手グループです。仮にJ筋と名前を付けておきましょうか。この仕手グループは『されば鈴の音』というウェブサイトを運営していました。仕手グループは『されば鈴の音』で大相場になるであろう銘柄としてさきほどの化学メーカーの名前を挙げました。いわゆる相場操縦ってやつですね。」

「その相場操縦と女の子にどういった関係があるのでしょうか?」

 

僕はお行儀のいい生徒よろしく中畑に質問した。

 

 

土 .6

ぼくちゃんは自分で自分を操作しているような感覚の中にいた。

彼はジープチェロキーを操作している自分を操作しているつもりでいた。

パークシティ浜田山E棟の目の前にある並木道に車を横付けしたのは8時56分だった。

 

「僕はサイドブレーキを引く」

彼は心の中でまずそう思ってからサイドブレーキを引いた。

 

「僕はシフトレバーをドライブからパーキングにスライドさせる」

彼は脳がそういう指令を自分に与えて、その指令が左手に伝達されていることを実感してからレバーをスライドさせた。

 

オレンジ色の暖かいライトが瀟洒なマンションの前やエントランスを照らしている。彼は真っ赤なリュックサックを肩にかけてから車のドアを開けた。リュックの中には何も入っていなかった。ただ赤いリュックを自分の視界のなかに置いておきたかったのだ。

 

「僕は後ろから車が来ていないことを確認してから外に出る」

彼はまずそう思ってから車の外に出た。

この儀式はぼくちゃんを落ち着かせた。彼は自分で自分をコントロールできているという確かな実感が与えてくれる不思議な安心感の中にいた。

 

E棟に向かって歩いていると、向かいから30代くらいの女性がきた。

ぼくちゃんは彼女の視点からみた自分を意識した。彼は映画のディレクターになっているような気分だった。彼女の視点からみた自分を何カットか映像に加えることで第三者的な視点から自分を眺めているような気分になった。加えて女の視点からみた映像を鑑賞している観客の視点からぼくちゃんは自分を眺めた。

 

ぼくちゃんはこの儀式をひと段落させたかったが、残念ながら思考のループから抜け出せなかった。彼はマンションのエントランスに設置されているオートロックのインターフォンに女の子から指定された部屋番号を入力した。

 

「僕は今右手の人差し指を3という数字に近づける。」

ぼくちゃんはまずそう心の中で唱えてから番号を入力した。

彼は羅列された番号をみているのではなく、自分の背中のあたりからインターフォンを押している自分自身を観察しているような気分でいた。

 

「○○様ですね、どうぞお入りください。」

声色から年齢を特定することはできなかったが女性の声だった。けれどその声はぼくちゃんをなぜだか不安にさせた。女の声はどことなく変声期を迎える前の男の子の声みたいだった。そこには彼が普段接したことのない人間の雰囲気があった。

 

「僕は左足を前に出す。その後で右足をまっすぐに出すのではなくて、30度ほど角度をつけて出す。」

彼は共同エントランスのドアを通る際にも、同じように自分を操作している実感を持ちながら歩いた。

ぼくちゃんはホテルのような内廊下を歩き、そそくさとエレベーターに乗った。

彼は意味もなく赤いリュックを自分の胸の中で抱きしめていた。

エレベーターは20秒ほどで彼を三階に運んだ。壁には鼻くそやガムが一つもこびりついておらず綺麗なエレベーターだった。感心した。

 

指定された番号のドアの前でインターフォンを押そうとしたが、それよりも早くドアが静かに開いた。中から様子を確認されていたのではないかと思うとぼくちゃんは不快な気持ちになった。なによりも「ドアの内側から見られている自分」を彼がイメージする前にドアが開いてしまったことが嫌だったのだ。

 

開いたドアから中に入るとぼくちゃんの眼はくらんでしまった。

どういうわけだか部屋が明るすぎた。白熱灯の光ではなかったが部屋は

あまりにも明るかった。夜9時の住宅に適切な明るさではなかった。

 

目がようやく慣れてくると女がぼくちゃんをリビングに案内した。

女は一言も口にしなかった。目で合図するだけだ。

顔から察するに30代前半だろうか、しかし女の身長は110センチほどしかなかった。

ぼくちゃんは持っていた赤いリュックサックをギュッときつく胸に抱いた。