スタインウェイの上、オレンジジュース6

代表はアイスコーヒーを入れたグラスを二つ持って戻ってきた。

 

「お願いって言うのはなんですか?」僕はコーヒーを少しだけ口に入れてから質問した。飲んだコーヒーは薄くもなければ濃くもなかった。よく言えばベーシックな味だったし悪く云えば凡庸な味だった。ペットボトルに入ったコーヒーをグラスに入れ直したのだろう。

「今、辞めてほしくはないんだよ。一件だけ個人レッスンをお願いしたい。」

代表は先ほど切った爪にヤスリをかけながら続けた。

「来週一回だけ先方の自宅に行って個人レッスンをしてほしいんだよ。理由はよくわからないんだけど、むこうは自宅でのレッスンを希望している。場合によってはうちの教室で引き続きレッスンを受けてくれるかもしれない。次回以降は他の講師に投げてもいいんけど、チャコちゃんがテスト期間中で今入れないらしくてね。今回だけお願いできないかな。もちろん、大した額ではないけれどボーナス出すからさ。」

 

代表が話をしている間、僕はベーシックで凡庸な味のコーヒーを飲みながらチャコちゃんの上腕三頭筋について考えた。

チャコちゃんは教室でチェロを教えている国立音大の学生だ。海外ドラマの影響で立派な上腕三頭筋にあこがれている。ピンポイントで三頭筋だけを鍛えにティップネス練馬店に週二回通っている普通の女の子だ。本名は茶雪(さゆき)ちゃん。まんこが少しくさい普通の女の子だ。

チャコちゃんについて考えることに些か辟易したので、僕は「べつに構わないですよ」と言った。

「詳しいことはラインで送るから。来週の土曜日ね。」代表は研ぎおわった爪を眺めながらそう言った。

 

シフトレバーを1つスライド。加速。