スタインウェイの上、オレンジジュース10

家主のおばさん。つまり今日のレッスンの相手は誰に頼まれるでもなくスタインウェイのグランドピアノに手を触れた。手はシワシワで爪は真っ赤だ。ロブスターみたいだ。

 

 モーツァルト〈ハ単調のフーガK394〉

 

いつかゼルキンが弾いている音源を聴いたことがある。厳格な対位法の作品だ。目の前でおばさんが険しい顔をして弾いている。

耳に入ってくる演奏は表面的に受け取ることのできる彼女のイメージと合致している。力強いと形容することもできるし強引であるともいえる。

けれども耳を澄ませているうちにそのような評価では収まりきらない音。当初は聴きこぼしていた音の粒がみぞおち10cm上当たりにいつの間にか蓄積していることに僕は気が付く。

聴き手にこういった感慨を抱かせるピアニストのことを多くの人間は「才能ある人」と呼ぶ。目の前にいるおばさんはおそらくその一人なのだろう。

 

「モーツァルトがお好きなんですか?」

 

僕はオレンジジュースのなくなったグラスを持ったままそんなようなことを言った。

「好きじゃないよ。むしろ耐え難いね。驚くほど耐え難いんだよ。聴いていても弾いていても耐え難い。」

「ならどうして今弾いてくれたんですか?」

「さっきやった曲はモーツァルトっぽくないだろう?だから弾くんだよ。」おばさんは缶ビールを飲んだあと手首で口元を拭いた。

 

僕は素敵だなと思った。加えて手首が濡れていて汚いなと思った。

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