スタインウェイの上、オレンジジュース5

代表はIDMと言われる種類の音楽を聴きながら爪を切っているところだった。パチン、パチン、パチン。

「IDMってみんなどんなときに聴くんですかね?ドライブでかけたら嫌われちゃいそうだし、踊れるわけでもないし、くつろげないし。」

左手の小指まで爪を切ったところで代表はこっちを向いた。

「ちょっと深爪してしまったなぁ、まあ座って。」

「代表は爪を切るときIDM聴くんですか?」僕はなんてことを聴いているんだろう。マヌケだ。

「今日はたまたまね。一時期こういうのを好んで聴いてたことがあったんだよ。最初はもちろん背伸びしてたんだろうな。でもね、こういう音楽がカチッと突然、ある日ハマるんだよ。不思議だよね。」代表は左手に爪切りを握り直して話を続けた。

「朝、電車に乗ろうと思って改札をくぐるんだよ。階段でホームまで下りる。もちろん特快電車は見送る。電車の中で吐いたらどうしようと思うと乗れないからね。だから普通の快速電車に乗るんだよ。それでもさ、吐いたらどうしようって思うと手汗がドバーッと出てきてね。呼吸も浅くなる。水飲んだって、飴なめたって誤魔化せやしない。だんだん意識も遠のいてきてもうだめだな、このまま電車にゲボぶちまけて死んじゃうんだろうなって思ったときに、突然IDMのこと思い出したんだよ。たぶんオウテカかなんかのアルバムだった。イヤホン出して聴くんだよ。するとさ、突然ビックリするくらい呼吸が楽になったんだ。あの手の音楽は特定のタイミングでは心理的な治療効果があるんだろうな。」

「電車のなかっていろんな人乗ってるだろう。いろんな香水。いろんな口臭。いろんなテンポの会話。どれもこれも、バラバラだよ。当たり前だよね。セッションじゃないんだから。だから多少乱暴なIDMの音を大きな基準として自分に設定しておくんだよ。バラバラなものをIDMの音に束ねるわけだ。一定の雰囲気とリズムの持続つまりパルスを継続させることで、バラバラな物事が自分の中で勝手に統一されて見晴らしがよくなるんだ。おかげで吐き気も徐々に引いていく。ようやく特快電車にも乗れるようになってさ。めでたしめでたしってことだ。」

代表は全ての爪を切り終え、ティッシュにトントンと切った爪を出した。丸めたティッシュをゴミ箱に入れた。

 

IDMの話しはまた今度にしよう。私から1つだけお願いがある」

 

 

シフトレバーを1つスライド。加速。