シラスの靴3

シラスの靴を履いたなら。

綺麗な足首ご満悦。

あなたも私も海の中

こっちにおいでよ、塩の粒。

あなたの身体の塩の粒。

ちょこっと私が舐めちゃうわ。

『シラスの靴』ベネディクト・アロンハイム

 

 

自転車を10分ほど漕ぎ指定された住所の前で停止する。

木で出来た小さな看板が目に入る。看板には「森のお船」と書いてある。

看板の横には70から80センチほどの小さな石像が鎮座している。

七福神のメンバーみたいな耳の分厚いおじさんの石像は頭だけつるつるとしている。

御利益でもあるのだろうか。僕もちょこっとだけ触ってみる。

 

「先輩と仲直りできますように。」

 

一見「森のお船」は用水路に面した品の良い新築物件のように思われるが玄関前に貼りつけられたシルバープレートには株式会社「苔の壁」と書いてある。どうやらただの住宅ではないらしい。そもそもこのあたりにある住宅に比べて「森のお船」が纏う雰囲気は格段に良い。あまりにも良すぎる。

一つ一つの窓はとても大きく、周りを様々な種類の木々が覆っている。素敵な建物だ。

僕は腕時計をみた。それほど急ぎではない。このよくわからない家にお弁当を届け3200円もらったらあとはダラダラ帰ればいいのだ。

 

ピンポーン

 

インターフォン押すと何の返事もなく突然木製のドアが開く。

「はーぃ」

 

それが僕とポポちゃんの最初の出会いだ。

 

ポポちゃんは今起きたばかりみたいな間の抜けた声で返事をした。

実際寝てたのだろう。右側の髪の毛だけペタンとしていた。

「注文のお弁当を持ってきました。ご確認ください。」

「はーい。わ、おいしそう。」

「ありがとうございます。お支払いが3200円になります。」僕はお弁当をポポちゃんに手渡してそう言った。

「カード使えますか?」

「えっと、クレジットカードは承っていないんです。お手数なんですけど現金でも大丈夫ですか?」

「ありゃあ」

ポポちゃんは「ありゃあ」と言った。僕もありゃあと思った。

「今現金の持ち合わせがないんですよね。10分ほどお待ちいただけませんか?」

ポポちゃんはそう言った後で、少しだけ唇を咬んだ。

「全然大丈夫ですよ。」

「すいません。中はいってください。それほどかかんないと思うんです。」

僕はお言葉に甘えて、「森のお船」の中で3200円を待つことにした。

 

「森のお船は」全く生活感のない新居だ。新築の家の匂いがする。

僕は新築の家の匂いがする香水が売ってたら絶対買うのになぁと思った。

通されたリビングルームはとても明るかった。太陽の光は「ほらよ」と言わんばかり。実際「ほらよ」と言いながら光を注いでいた。窓が大きな家はそれだけでも気持ちいいんだなあと僕は感心した。

そういえば窓にはカーテンがなかった。カーテンのない世界線に迷い込んでしまったのかもしれない。まあカーテンなくてもいいやと僕は思った。

 

 

 

 

シラスの靴2

用水路に架かった橋から下を覗くと鯉がたくさんウヨウヨしている。

 

クヨクヨしながら食べきれなかった食パンをちぎって「えいやっ」と投げてみる。

人差し指と親指でこねられた鼻くそみたいなパンの破片はたくさんの鯉に向かって垂直落下していく。威勢のよさそうな鯉がビチャビチャと水しぶきをあげて米粉の塊を奪い合う。

 

視線をビチャビチャと蠢く水中ハイエナたちから逸らせる。用水路の流れを目で追っていると群れから1メートルほど離れたところで僕と同じようにクヨクヨしながらポツンと一匹で泳いでいる灰色の鯉を見つける。

僕はその鯉にパンを差し入れしたいなと思う。再び人差し指と親指の腹で食パンを煉りクヨクヨした鯉に向かって投げてみる。

ポンッと水面にパンの塊が落ちるとクヨクヨした鯉が不思議そうに小さな球体の周りを泳ぎ始める。慎重な鯉。

鯉はクヨクヨしながらも口を控えめに開けパンを飲み込む準備をする。

お行儀のいい鯉。いただきますの舞。

クヨクヨくんはパンを食べようとするけれど群れの方から突然やってきた別の鯉が小さなパンの破片を横取りしてしまう。威勢のいい鯉。ビチャビチャと音を出している。

 

「僕も君も。もう少し図々しくならなきゃいけないね。」

 

休憩時間を終えて、用水路の近くにお店を構える料亭の従業員入口に僕は戻っていく。

 

「出前が一件入ってるよ。駅の近くの公園のところだね。サクッともってって。」

バイトの先輩はサワラの切り身が乗ったお弁当を4つバッグにいれて持たせてくれる。

 

先輩は用水路の近くにある女子大で数学の勉強をしている。僕と先輩は一回だけ台風の日に寝たことがある。だけどストロング缶を先輩の一番やわらかいところに塗って以来彼女は僕と寝てくれない。家にもあげてくれない。

 

先輩曰く「ストロング缶はデリケートなところに塗るべきものではない」らしい

 

大学で数学の勉強をしているとそんなことまでわかる。偉大な学問だ。

 

「サクッともっていきますよ。20分くらいですかね。」

「よろしい。」先輩は目を合わせてくれない。

マンコにストロング缶を塗ると女の子は機嫌を悪くしてしまうのだろうか。

でも僕たちはこうやって少しずつ他者を理解していく。ちょっとずつ前進していく。

 

「じゃあ行ってきますよ。」僕はサドルの付いていない自転車をスタッフ用の駐輪場から取り出す。お客様に会う前なので耳糞をほじりながら自転車のかごにお弁当のバッグを入れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

Dancing on the Ceiling

[証言1] 蜘蛛くん

 

よく床で眠る人だったね。近くにベッドもあるんだ。なのに床で眠るんだよ。

たいていは浮かない顔してた。よく家の中にお邪魔してたんだけどさ。

僕がダンスしてるところ。たくさん見てくれたんだよ。結構いい顔してたよ。そういうときだけはね。

煙たがられると思ったんだけどさ。だから僕もあの人のことは好きだったよ。

ベッドで眠ってほしかったな。

 

[証言2] マダム便座カバー

 

最近はあまり見かけませんでしたよ。日に日にトイレを使わなくなっていったんです。

昔はよくお尻を預けてくれたものですけどねぇ。そういえば私ぶっかけられたこともあるんですよ。年下の男の子になんてね。まあ事故だったんですけども。

いずれにしても最近はめっきり姿をみせなかったです。憔悴しきっていましたよ。

おそらくトイレに起き上がることもできなかったんでしょうね。私もそろそろ今後のことを考えないとダメかなぁ。

 

[証言3] 親方・2Lペットボトル・アルプスの天然水

 

滅多にいねえタイプだよ。普通飲まれたら終わりだよ。わかるか?たまに備蓄されるようなやつもいるけどさ、それだって中身があっての話だろ?

俺も飲まれちまったからには悔いはねえって感じだったよ。

ところがどっこい。ホントにさ。勘弁してほしいよ。あいつ自分のブツを俺の中に突っ込んできやがった。挙句の果てにションベンしやがるんだよ。もう最初は腹立ったよ。

かちんかちんってな(笑)そりゃあそうだろ?

だってさ。俺たち飲まれるためにあるんだよ。本質が実存に先立ってるわけだよ。

わかるだろ?何かを出されるために足一本で踏ん張ってるわけじゃあねえからよ。

そういや、あいつだんだんションベンもしなくなってったな。心配だったけどわかるんだよ。こいつはいろいろと決着をつけようとしてるんだってな。俺も無粋じゃねえから、その辺はそっとしておいてやろうって決めたんだよ。あいつがきめたことだからさ。

 

総括

だれも知らない。だれも見ない。蜘蛛が天井を踊る。便座カバーは誰にも座られない。

ペットボトルの中にはオレンジ色の液体が半分。腐敗した男が一人ぶらさがっている。

 

 

 

 

スタインウェイの上、オレンジジュース10

家主のおばさん。つまり今日のレッスンの相手は誰に頼まれるでもなくスタインウェイのグランドピアノに手を触れた。手はシワシワで爪は真っ赤だ。ロブスターみたいだ。

 

 モーツァルト〈ハ単調のフーガK394〉

 

いつかゼルキンが弾いている音源を聴いたことがある。厳格な対位法の作品だ。目の前でおばさんが険しい顔をして弾いている。

耳に入ってくる演奏は表面的に受け取ることのできる彼女のイメージと合致している。力強いと形容することもできるし強引であるともいえる。

けれども耳を澄ませているうちにそのような評価では収まりきらない音。当初は聴きこぼしていた音の粒がみぞおち10cm上当たりにいつの間にか蓄積していることに僕は気が付く。

聴き手にこういった感慨を抱かせるピアニストのことを多くの人間は「才能ある人」と呼ぶ。目の前にいるおばさんはおそらくその一人なのだろう。

 

「モーツァルトがお好きなんですか?」

 

僕はオレンジジュースのなくなったグラスを持ったままそんなようなことを言った。

「好きじゃないよ。むしろ耐え難いね。驚くほど耐え難いんだよ。聴いていても弾いていても耐え難い。」

「ならどうして今弾いてくれたんですか?」

「さっきやった曲はモーツァルトっぽくないだろう?だから弾くんだよ。」おばさんは缶ビールを飲んだあと手首で口元を拭いた。

 

僕は素敵だなと思った。加えて手首が濡れていて汚いなと思った。

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土 .7

何日たったのだろう。2日くらいだろうか?よくわからなかった。

 

僕は縦横2mの四角い大きな箱に入っている。

 

*

 

「この中へ」

僕をリビングルームまで案内した女は手に持っていた黒いコットン製のシャツとテロテロとしたズボンを渡しリビングから消えていった。

言いたいことはたくさんあったが女の身長は110センチほどしかなく身長差からどうしても僕が彼女を見下すような恰好になってしまう。そのことで僕は居心地が悪かったので引き留めるのは止めにした。

 

部屋は夜の21時にもかかわらず、太陽の光に包まれていた。窓からは青空が見えた。

どうして僕は青空を見ているのだろう。夜の21時にもかかわらず空は真っ青だ。

 

ジェームズ・タレルの作品みたいな部屋だった。

 

僕は赤いリュックを部屋の隅に置いてある籠の中に入れた。服も脱いだ。きちんと畳んでそれも籠の中に入れた。

シャツを着た。続けてズボンを履こうとするとプラスチックのように固い紙が床に落ちた。ズボンに挟まっていたのだろうか。

 

白い紙には何も書いていなかった。僕は勘弁してほしいなと思った。

続けて目の前にある白い箱を観察した。膝から腰の高さに一カ所だけ取っ手が付いている。ここから入ればいいのだろうか。

 

ひょんなことから土に埋まってしまっているお父さんはいったいどこにいるのだろう。

 

どうして僕はわけのわからない部屋にいるのだろう。部屋には白い箱の他には煌々と陽光が差し込む窓しかない。他にはなにもない。選択肢はないのだろう。

僕は箱に入るためにしゃがみこんだ。

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